アナログ人生デジタル化     風と共に一本の道がある

18'/5月:ルーツと0~22歳, 18'/6月:83'年ワーホリでオーストラリアバイク一周26000km日記形式と写真で(約200日)19'/1月:84'年にバイクで日本一周10000km(約50日) 20'/4月:92'年末~93年2月初めのサハラツーリング (5000km)他

毎日更新 1982年 バックトゥザ 昭和57年 21歳 大学3年 冬~春 スキー部 ケガ 救急車 全関西学生スキー選手権大会 福岡大学 旅ブログ 終活ブログ

さあいよいよ大学の競技スキーと幹事との二刀流も最後が近づいてきました。

時々ローカルレースに出ながら3月の本大会を目指します。

実はこの年の正月に膝の十字靭帯を損傷してしまいました。3日間足を引きずっていましたが、なんとか無理矢理復帰しました。このあと毎日自己流テーピングで膝をぐるぐる巻き状態(一応専門誌で巻き方を研究しました)で1シーズンを過ごします。1、2年の時は全くといっていいほどけがをせずにできていたのですが、初のけがはこたえました。

ケガで思い出すのが幹事として2回乗った救急車の話題です。自分ではなく1度目は先輩のIさんの転倒記憶喪失事件です。斜面を滑ってほぼ平地に近いところで彼女は転倒し、割とすぐに起き上がったのですが、頭部を打ったせいか「ここはどこ?私はだれ?何があった?」状態でこれはヤバいということで、すぐにレスキューを呼びました。パトロール隊がスノーモービルでストレッチャーを持ってきてゲレンデから駐車場へ運びました。救急車を手配してもらい20数キロ先の下界の米子市へ(確か高島病院)、幸いにも大きな外傷や異常もなく入院せずに山へ戻れました。(さきほど本人に確認したところ、その日は休日で脳波をみれる先生が不在の為、打撲と軽い脳震盪であろうという診断だったそうで、投薬もなかったみたいです)

2度目は同級生のNくんの木の枝が耳に刺さった事件です。この時はレース中に彼が転倒しコース外の林へ突っ込んだ際に、偶然にも木の枝が耳につき刺さります。あたりはぽたぽたと真っ赤な血のあとがつきました。私はすぐに現場へ駆けつけて、またまたレスキューを呼び、前回同様にパトロール隊がスノーモービルでストレッチャーを持ってきてゲレンデから駐車場へ運びました。ただ今回はけっこう斜面の上のほうでしたので、下までおろすのに時間がかかりました。救急車を手配してもらい下界の米子市へ。

外傷では運よく鼓膜の損傷はなく。外耳道のきずによる出血でした。しかし神経も痛めたようで三叉神経という脳神経の一部に影響を与えてしまい。彼はこれから神経異常に悩まされます。

さて、本大会のことを書こうと思い出すのですが、ほとんど覚えていません?

全関西学生スキー選手権大会(1部校10校、2部校20数校)のアルペン種目は2種目で、滑降と回転競技です。福岡大学は当時2部でした。滑降は順位覚えていません。回転は各大学の選手が約80~100人滑り、20位以内が2本目へ進み、2本の合計タイムを競う方式です。1本目はなんとかぎりぎりの20位に残り、2本目へ進みました。合計タイムの結果16位でした。これは昨日の、大山スキー場の小椋さんが声をかけていただき近畿大学と合同練習をしたエピソードの成果だと思います。

中四国九州学生スキー選手権大会の成績は、下の写真のとうりです。

ノルディックの話は明日に。

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小さな大会

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地元のローカルレースです

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もう少しで3位 惜しい

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もう少しで3位 惜しい

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得意の滑降でミスをして総合5位








 

毎日更新 1982年 バックトゥザ 昭和57年 21歳 大学3年 冬 スキー部 大山 ウイスキーの牛乳割り 全日本学生スキー選手権大会 妙高 赤倉 福岡大学 旅ブログ 終活ブログ

とてもお世話になった方々への感謝も含めて、あるエピソードを書きます。

我が福岡大学スキー部は九州から毎年合宿で大山スキー場を訪れていましたが、はっきり言って実力も成績も低レベルでした。もちろん九州出身者がほとんどでしたので、当たり前かもしれません。そういう状況の中で私が選んだアルペン種目のレベルをなんとか上げたいと思っていました。まずは質より量と思い、とんでもないことを始めます。普通スキー場のリフトが動き出すのが午前8時くらいですが、その前に午前7時頃から板をかついで一番上まで歩いて登り、誰も滑っていないゲレンデで直滑降などのトレーニングをするのです。そしてリフトが動き出すと今まで通りの練習に切り替えます。これまで書き損ねていましたが、我がクラブは予算もすくない貧乏クラブでしたので、前述のように自炊でしたが、なんとお昼ご飯も往復30~40分かけて大神山神社の社務所に戻り食べるのです。そして今度はリフトが止まる午後5時から、またまた板をかついで一番上まで歩いて登り最後のトレーニングです。さすがに体力があるはずの私も練習後に行き倒れて雪の上でしばらく動けなかったほどです。

さあここからが本題です。こういう練習をどこかで見ていらっしゃた方がこの下の写真の小椋さんです。近畿大学スキー部出身で全日本選手権などの出場選手で、大山スキー場の超有名人です。ある時声をかけられて「よう練習しとるね~、一度うちに飲みに来んさい」とのお誘いでした。(ご実家は大山スキー場の旅館街で宿泊施設をされています)そこで、アルペン種目のキャプテンAくんと二人で次の夜に行くことになりました。色んな話をしていただき、ウイスキーの牛乳割りなどを相当飲んだと思いますが、あまり覚えていません。フラフラしながら大神山神社の社務所まで歩いて帰りました。こういった残業が実を結び、またまた小椋さんから声をかけられます。なあーんと、「近畿大学と合同練習をやらんか~?」という前代未聞のお話。なぜなら近畿大学は全関西学生スキー連盟の一部校で優勝常連の関西最強豪クラブ(なんと1969年から2007年まで38連勝!)で、二部校の下位の我がクラブとはレベルが違いすぎます。結局、合同練習をすることになり、ポール練習という回転や大回転の練習をやりました。同じ大学生なのですが、うぉ~!という感じのレベルで全くついていけません。が、しかしある選手のやや後ろをまねをしながら滑っているときに、ほんの少し何かのヒントが舞い降りてきた感じがしました。具体的な表現は難しいのですが、こうなることがこの出会いにあった気がします。感謝感謝感謝です。

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 スキージャーナル2005年2月号を偶然書店で見かけ、30年ぶりに買いました

 

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カメラマンが撮影した写真です。気迫ある滑り?

全日本学生スキー選手権大会( 妙高 赤倉)へ出場しました。(結果は秘密です)上の写真のレーシングスーツは確かスキージャーナルという競技スキー専門雑誌で、東北の高校生が掲示板に中古品として売りに出していたのを買ったものです。値段は確か1万円くらいでした。インターネットがない時代が懐かしいです。

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今ではこんなにボロボロ、今月処分しました。

 




毎日更新 1981年 バックトゥザ 昭和56年 21歳 大学3年 秋~冬 スキー部 大阪 スキー連盟会議 福岡大学 旅ブログ 終活ブログ

幹事のお勤めで大阪で行われた、関西学生スキー連盟の会議に出席しました。昨年は新幹線で行きましたが、クラブの経費削減も考えて、今年はバイクで行くことにしました。夕方に福岡をスタートして小倉まで走って、小倉からはフェリーで大阪まで夜の航海で翌朝到着しました。会議へバイクで行き参加し、(内容は全く記憶にございませんが、翌年3月の大会についてが中心だと思います)帰りは国道2号線(約600km)を会議終了後の夕方から夜中じゅう走って翌朝に戻りました。長距離トラックも多くちょっと怖い思いもしました。本当はもっとあちこちへバイクでツーリングしたい思いがありましたが、何度も書いていますようにお金のかかる部活ですので、我慢がまんガマンでした。その反動が表れるのはこの2年後です。

別の機会に岡山県にある人工スキー場へ行きました。人工芝に水をまいたゲレンデは本物の雪とはかなり違うのですが、滑走感覚はある程度似ている部分もありますので、雪がない時期のトレーニングとしてはいいと思いました。まだその頃は九州になかったので、いつか出来ればいいなと思っていましたら、その後出来ました。

相変わらずバイト三昧でしたが、好きな読書も続けていました。小学生から定期購読していたリーダーズダイジェストの当時の領収書が出てきました。文庫本よりやや大きく薄い月刊誌でしたが、残念ながら日本では1986年に休刊となっています。(しかし世界ではリーダーズ・ダイジェストは100カ国以上で、35カ国語の52の版が発行されていて、4000万人の読者がいます。発行部数は1700万部で、有料で流通している世界最大の定期刊行雑誌です)

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これも出てきました。中四国九州学生スキー連盟の角印があります。年会費でしょうか



毎日更新 1981年 バックトゥザ 昭和56年 20歳 大学3年 春~秋 スキー部 ジャンプ台 福岡大学 旅ブログ 終活ブログ

下の写真は珍しく雪がない時期のジャンプ台です。鳥取県大山スキー場にあるジャンプ台が新しくなったという情報をもとに7人で見に行きました。(11月3日の日付です)サイズはたしかノーマルヒル?

ここ大山は二度の冬季国体が行われた歴史があり、ここのジャンプ台は札幌オリンピックで金メダルをとった笠谷幸生さんや(思い出しましたが、札幌オリンピックのジャンプ競技70m級で日本は金銀銅を独占しました)、長野オリンピック金メダリストの船喜和喜さんも飛んでいます。

そういえばこの年の2月にジャンプ用の板を履いて飛びました!というのは噓です。ジャンプ用の板を履いてランディングバーン(飛んだ後に着地する斜面、角度は37~40度)を滑りました。ジャンプ用のスキー板は直接見たことがない人も多いと思いますが、まず長い、重い、幅がある、かかとが浮く(空中へ飛び出すため)のでコントロールが難しいなど、普通のスキー板とは全然違います。

スキーのジャンプ競技はノルウェーで生まれて、競技の発祥は死刑だった」と聞いています。死刑囚を冬の谷の上にスキーを履かせて立たせ、そこから谷へ突き落としたらたまたまうまく飛んで滑りきったことから競技となったそうです。
それだけ危険な競技であることを現すエピソードですね。

一番右が私ですがスキー用のサングラスをしています。というのも小さい頃から、運動会の練習などで白の体操服を見た時や、とても明るいところではクラクラしていました。黒目の色素が薄いからと聞いたことがあります。青い目の外国人などがよくサングラスをしている理由ですね。けっしてかっこつけやファッションではありません。?

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新しいジャンプ台にて 鳥取県大山

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車2台で行ったと思います

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なぜか日本海で記念写真





毎日更新 1981年 バックトゥザ 昭和56年 20歳 大学2年 スキー部 春合宿 大学選手権 滑降 入賞 福岡大学 旅ブログ 終活ブログ

春合宿では、アルペン種目の方では大学選手権が全関西と中四国九州の二つの大会があります。更にはスキー場やクラブなどが主催するローカルなレースもあります。

ローカルレースは元国体選手や元大学スキー部出身の速い社会人も出場し、意外にレベルが高い時もあります。その中で二刀流の私はこのシーズンで2回の入賞を果たします。特にスタートからゴールまでいまだにはっきりと覚えているのが、中四国九州学生スキー大会での滑降競技という一番スピードの出る種目です。210cmくらいのスキー板を使用して薄いワンピース構造のレーシングスーツを着用します。この年のコースは大山国際スキー場のリーゼンコースで一番標高が高いところから一番低いところまでの1500~2000mを滑ります。当然コースはレースのみの独占使用で、規制テープが張られて緊張感が高まる雰囲気です。さて、肝心のレースですが、まず我がクラブは予算が少なく滑降用のスキー板を今シーズンは買えませんでした。仕方なく古くてしかも板の先がやや上に曲がっているという、とんでもない板を使うしかありませんでした。追い打ちをかけるようにこれまた予算の関係上滑降用ワンピースは、買えないどころかありませんでした。そこで一計を案じて、なんとクロスカントリー(距離)競技用のワンピースをキャプテンのTくんから借りることにします。(ちょっとどころではない恥ずかしさはありましたが、背に腹は代えられない状況でした)

失うものは何もない状況で、いよいよレースはスタート序盤部分はやや急な斜面を大回りのターンの連続です。そして壁という通称がつく急斜面へはその手前から直滑降で進入します。一番重力を感じちょっと体が浮く感覚になりますが、このあとの中盤部分は緩斜面もあり、通称廊下と呼ばれるやや直角気味に曲がったり、左右にへびのようにくねくねと曲がったコースを進んでいきます。そして、終盤部分はくねくねの最後からまた直滑降で最後の初心者向けコースまで進むのですが、初心者コースに入る手前にスノーモービルや雪上車や人などが通る幅5mくらいのがあります。(通称夏道)この付近では時速90km以上は出ていますので、その道では踏み切りなしでもジャンプして飛んで行くのです。ここはかなり重要な場所です。なぜなら急斜面での細かいミスはタイムロスがわずかなのですが、緩斜面でのタイムロスは大きくゴールタイムに影響を及ぼすからです。

さてここをクリアするためには事前の準備が必要と判断していましたので、2月から通行する人などが少ない時間帯などを利用し(マネージャーのKさんらの協力もあり)夏道のジャンプを何度も練習しました。踏み切るタイミングと空中姿勢と着地をチェックします。もちろん昨年オフシーズンにはトランポリンでのきついトレーニングもやっていましたし、コースを頭の中で何度もイメージで滑っていましたので、レース当日はほぼ無心で臨めました。

さあレースに戻ります。その道の手前約100mくらいのところから夏道が見え始めますが、その時その道の脇のテープで規制されているところに、なんと練習から協力してくれていたマネージャーのKさんの姿がはっきりと見えたのです!コースはもちろんデコボコがありますので、体は上下動します。したがってその上下動を太ももや腹筋背筋などを使って、バイクのサスペンションのように衝撃を吸収しながら滑るのです。その時コース全体が見えるほどの衝撃吸収状態であったことが、結果につながっていったのがあとからわかりました。ちょっとビデオのスロー再生に近い感覚でジャンプをして、最後の緩斜面を滑ってゴール!!!!!結果は全体の2位。1位とはわずか0.1秒差で1位の選手はよく知っている広島大学のキャプテンでした。お互いに声を掛け合い称え合いました。

「もし」がないのはわかっていてもこの時ばかりは思いました。もしスキー板がまともで、もしウェアが滑降競技用ワンピースだったら?0.1秒差はどうなっていたか、、、

私の競技スキー歴に残る素晴らしいレースでした。この2位の意味を問うより、まずは状況を把握し全知全能状態に少しでも近づくよう熟慮し、全身全霊を打ち込み、全力疾走したことに意味があると思います。38年前の事を日記や写真もないのにこれだけ書くことができるのには自分でもびっくりしています。若い時の強烈な記憶なのでしょうか。

ノルディック種目の話はまた改めて後日に。

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良く覚えているレースです。詳細は本文にて

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こんな感じが滑降競技での直滑降です

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マイナーな大会でしたが、プレイングマネージャーにしてはグッド

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全日程終了後の記念写真、クロスカントリーリレー競技メンバーらと

このときはリレー競技の結果は8位でした。さて来年は?



 

 

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大学の体育部会全体の会議が佐賀県龍登園(老舗大型旅館)で行われました。体育会は大学から予算を分配されており、年1回の会議出席や会計記録の提出が義務付けられています。名刺を作って参加しました。野球部、陸上部、体操部等の30~40くらいの主将や幹事と交流でき横の繋がりも出来いい経験でした。このことが来年度のある結果につながっていきます。

そして大阪で毎年行われる全関西学生スキー連盟の会議にも出席しました。

スキー部の合宿はまず12月中旬から下旬は長野、新潟方面へ行き種目別にトレーニングをします。それから鳥取県大山へ移動し、年越しをして1月上旬に一旦福岡へ戻ります。そして1月中旬には国体予選を兼ねた福岡県体育大会が開催されます。後期試験後には、2月上旬から3月下旬までの春合宿とローカルレース、全関西学生スキー選手権大会、中四国九州学生スキー選手権大会などで終了です。

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12月下宿 長野県野沢温泉スキー場

 

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時期はこの年ではありませんが用具関連の領収書です。かかりますねえ

そういえばコンタクトレンズがハードでしたので、滑っているときに飛んでいき紛失したことが何回かあります。意外とスキー場は乾燥していましたので、予備を買って持っていたと思います。
用具は毎年のように何かを買い替え買い足しするので、かなりの出費でした。

こんなエピソードを思い出しました。スキー板を2,3セット入れることができる巨大なスキーケースがあるのですが、北国ではタクシーで移動する際は車の屋根にキャリアがあって問題なく載せることができます。しかし、九州ではそんなタクシーはなくどうやって運ぶかというと、まず助手席の窓を開けそこから斜めにリアシートの上を通してリアのウィンドウに押し付けるという方法です。(その頃のワゴンタクシーはありませんでした)または、公共交通機関によって運んだ際は、同乗のお客さんから毛布をどうして運んでるの?と聞かれたりしました。

毎日更新 1980年 バックトゥザ 昭和55年 20歳 大学2年 夏 スキー部 夏合宿 リコール 幹事 プレイングマネージャー 福岡大学 旅ブログ 終活ブログ

夏休みがやってきました。毎年恒例の夏合宿は陸上トレーニングのみの合宿で、2泊3日でした。この年は山口県の萩で行いました。毎回2日目に30~40キロの長距離走を行います。夏の炎天下での長距離走はリタイアする者も出ることがあり、きつい思い出ばかりです。筋トレでおしりの皮が擦りむけるほどの連続腹筋(200~300回)をすると、その夜の風呂でおしりの傷がしみて叫んでいました。

そして秋になるころに、こういうことがおきます。キャプテンをしていた3年生の先輩が練習をさぼったり自覚不足が目立つようになります。夏合宿の遅刻もありましたし、クラブ全体に与える影響が徐々に大きくなっていきます。そこで、ついに我々3人の副キャプテン、会計の先輩、幹事の私でキャプテンをリコール処分してしまいます。つまり、クラブをやめさせたのです。部創設始まって以来、前代未聞の出来事です。クラブOBから呼び出しを受け説得されたりもしましたが、決定を覆すことなく副キャプテンがキャプテンになり、更に新しい副キャプテンも決め再出発となります。楽しい思い出ばかりではないのが当たり前ですが、決断の難しさを突き付けられた忘れられない出来事です。バイクで油山に登って思案したりもしました。しかし、このことで同級生の結束が強まり翌年の素晴らしい出来事につながっていくのですが、この時の我々は目の前のことで精一杯でした

 

下の写真は太ももの筋肉が徐々につき始めアルペン種目の選手らい体形になっていった時期です。ジーパンをウエストサイズで買えない体形ですね。柔軟トレーニングのおかげでなんと両足を左右に開いて上体を前屈し胸が地面につくようになりました。

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ほぼ最下位?



毎日更新 1980年 バックトゥザ 昭和55年 19歳 大学2年 春 スキー部 アルペン 幹事 プレイングマネージャー ミニコンポ YMO 福岡大学 旅ブログ 終活ブログ

2年生になり、ちょっとビックリの出来事がありました。スキー部は3年生が二人しかいなく一人はキャプテン(男子)、一人は会計(女子)になりました。運営に携わる幹部はあと副キャプテン幹事です。副キャプテンは2年生の同級生Tくん、そして幹事は私が選ばれてしまいます。スキー部の運営責任者として、大学や他の部との折衝、スキー連盟での会議出席、夏合宿と冬合宿と春合宿と大会等の計画立案、宿泊や交通等の手配、部の運営すべてに関わる重要な役目です。なんとかなると思い引き受けたというか先輩から無理矢理? 初めてのことばかりで思い悩む事もありましたが、すべきことをこなしていく日々でした。

クラブ運営と自分自身のトレーニングの両立はまさしく二刀流で、プレイングマネージャーという立場でしたが、周りの協力もあって進めていくことができました。また、スキー部に新入生も入って活気も出てきますが、ある問題が噴出し始めます。この話は明日に。

この頃流行っていたミニコンポを買いました。アイワのミニコンポ(約10万円)とヤマハのスピーカーNS10M(1ペアで5万円)とパイオニアレコードプレーヤー(約3万円)です。機器にお金をかけすぎ、部活もあってレコードはあまり買えませんでしたので、ラジオからカセットへ録音したりして楽しんでいました。そう言えばYMOのレコードは何枚かは買った覚えがありますが、いまはいずこに?

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今も押入れで睡眠中です

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今は壊れかけて爆睡中です

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お亡くなりになりました



毎日更新 1979~80年 バックトゥザ 昭和54~55年 19歳 大学1年 冬 スキー部 初合宿 初レース 福岡大学 旅ブログ 終活ブログ

さていよいよ初のスキー部の合宿です。12月中旬から1週間は長野県の野沢温泉スキー場、12月下旬から1月初旬は高校の時に行った鳥取県大山スキー場です。大山スキー場では宿泊が、伝統なのかなぜか大神山神社の社務所を借りての合宿でした。環境はテントよりちょっといい or ユースホステル以下くらいのレベルでした。すべて自炊でしたので、1年生が食事当番で約10数人いた同級生と交互に慣れない調理をしました。(そう言えば入部時点では20人いた同級生の約半分が雪を見ることなくやめていきました)寝るのは畳の上に寝袋で部屋は超すし詰め状態でした。風呂は思い出したくありません。今となってはとんでもなく非効率、不衛生な状態、体制、練習、用具等でしたが、経験という部分ではもう誰も出来ないことなので今ではすべてが思い出深い事ばかりです。

そして、初レースは1月15日の福岡県民体育大会です。成人式に出られない日程での初入賞で少し自信が芽生えました。レベルは低かったのですが、九州でのウィンタースポーツという地理的なハンディを越えることや個人競技ならではの面白さを徐々に体得していった頃です。

大学の後期試験が終了後の、2月上旬から3月下旬までの長い春合宿もこのあとありました。この時の合宿は大会の行われる鳥取県大山のみでした。全関西学生スキー選手権大会(1部10校、2部20数校で我々は2部)と中国四国九州学生スキー選手権大会です。この合宿のあと1年生数名がやめましたが、そのあとは残り全員の10名は最後までやり切りました。我々1年生も出れる試合にはもちろん出場しましたが、まだまだのレベルでしたので、結果はないに等しい状態でした。

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新幹線乗車前 博多駅

 

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たぶん長野駅

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長野駅

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鳥取県大山 大神山神社社務所

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同じく 社務所

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初レースで入賞





 

 

毎日更新 1979年 バックトゥザ 昭和54年 19歳 大学1年 秋 バイク買い替え ホンダ TL125 バイアルス 中型免許 福岡大学 旅ブログ 終活ブログ

 原付免許から中型免許へアップグレードしました。試験場へ直接実技試験を受けに行きましたが、確か7回落ちて8回目にやっと合格でした。聞くところによるとわざと落とすのが当たり前の時代でした。競技スキーというとても金のかかる部活にチャレンジしていましたので、中型免許最大の400ccは車検もあって、買って維持するのはとても無理でした。新聞配達をしていた先輩から、中古の125ccの ホンダ バイアルス TL125を4万円で買いました。4サイクルエンジンで燃費も良く(確か最高でリッター40~50kmくらいでじた)この時から約5年間通学とバイトに活躍してくれます。唯一といえる欠点はシングルシートで一人乗りということくらいです。スモールウィンカーやスモールストップテールに変えたりして楽しみました。ブロックパターンタイヤは雨の日に滑りやすく一度大学の近くで転倒もしてしまいました。限界すれすれの感覚をつかむにつれて慣れていき、ウィリーテ-ルスライドなども遊び程度でできるようになります。こういう人馬一体感によりテクニックが向上していく時は、バイクが徐々に真の相棒となって行く喜びがあります。林道も時々走りに行き自然を満喫出来ましたが、この時はまさか自分がオーストラリアをバイクで一周することをやるなんて想像したこともありません。しかし、運命や出会いは想像を超えたところからやってきます。この3年後に。

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なんと当時のスキー部での領収書が出てきました。入部金や積立金、コンパ代等々

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合宿費や交通費などもあります